詩 1 2020/05/23
「断章」
生れた街の突堤の下には
星空とどこまでも青く昏れる
ぼくの内部。
夢は細胞から発生するんだろうか、
あるとき、
きみが口にした一節の謎は
いまもまだぼくの海に浮かんだまま
ただ、光の射さない暗礁のごと
事象として「過去」の葬列に繰り入れられ
眠っている、しずかに。
夜霧のさき
閉塞感と疲労。バイトが短縮で普段より三時間早く終わる。楽になるかと思ったがそんなことはない、むしろいつもより忙しなく時間は過ぎていき、文頭の二つのものを抱えて家に帰る。
一人暮らしは気儘な自由が許されているが、孤独を知るのにも良い機会だと思う。冷たい夜の風を裂き部屋のドアを開ける。いつもそこは暗闇だ。隔離は孤独との闘いであることをたしかに肌に感じた。
今日は本のことを書こうと思う。大学に入ったときから読もうと決めていた本(だいたいそういう本こそ後回しにされていくのだが・・・)をいよいよ読んだからというのもあるんだ。
『夜と霧』と聞くと小説か物語だと思われるだろうが、これは第二次大戦期におけるナチスの収容所における体験記である。著者の経験・心理的洞察を主に記されている。内容については多くは語らないつもりだ。ただ、悲惨なことから教訓を得たぞ、という単純な編成ではないことだけは担保しておく。英題は「Man’s Search For Meaning」(人間の生きる意味を探す)であり、個人的に「夜と霧」という邦題を付けたことはものすごい功績だと思う(誰かは知らない)収容所の暗く深い夜を形容するように、希望を覆い隠す夜と霧という名詞を選び取るのは、鋭敏な詩人の感性だ。憧れる。
話がそれた。。作中にこのような言葉がある。ニーチェの格言を引用したものである。
「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」
したがって被収容者には、彼らが生きる「なぜ」を、生きる目的を、事あるごとに意識させ、現在のありようの悲惨な「どのように」に、つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしてやらねばならない。
収容所生活が長くなるにつれ、残酷な状態に慣れてゆく。精神的にそれを辛いと思わない、いわゆる”不感”状態に陥ったとき、人間は精神的に死ぬという。そして、精神の死んだ者から、今度は本当に死んでゆくのである。
僕は、このニーチェの言葉にはっとするものがあった。それは自分に強く刺さっていたからだ。場当たり的に、大きな目標もなくただ日々を空過する自分に、それはまるでひとつの銃口をつきつける。今の状況に甘えて、日々を貪るだけになってはいまいか。なぜ生きているのか。それを考えて生きているか。
何故生きるか、を考えて生きること。その精神的な土台は強靭な生命力になる。ひとつの目標があれば、それに向かうことそれ自体が生きることへと転化される。夏目漱石「こころ」で先生が言っていた「向上心のないものは馬鹿だ。」というのは、文脈を無視すれば真理ではないだろうか。何者かへ向かう心こそ、今必要なエネルギーではないか。
いま、夜霧のさきの景色に何を見るか。重く立ち込める孤独。この長くなりそうな夜を、どこまでも深い霧を、晴らした後の景色を夢想できるだろうか?
Uillow
文化の灯を守れ
人間の健康に本質的に作用しているのは、文化である。食生活、睡眠、スポーツ、他者との友好的な関わり、これらすべてに作用しうる基盤的な存在が、文化という総体だ。裏を返せば、文化は多くの事柄を包摂しているが、社会的な人間同士の関わりというのは文化を語るうえで欠かせないファクターの一つだ。(文化を真剣に語る・議論するつもりはあんまないけど)
今回のCOVID-19で、多くの人々(特に学生)が自宅で時を過ごすことを余儀なくされているように思う。僕もひとりの学生として、今感じていることを言葉にしてみようと思う。まず、他者との交流がめっきり減ってしまうと、インドアマンの僕であれどこたえるものがあった。自分以外の人間と会って何気ないやり取りをしたり、冗談を言い合ったり、たとえそれが生産的でなくとも、メンタルヘルス的には非常に大切なことだったんだと気が付く。
今読んでいる本はViktor Frankl“Man’s Search for Meaning (夜と霧)” なんだけれど、これが非常に重い本である。物理的にではないけど、重い。お話としては、心理学的に著者が綴ったアウシュヴィッツ収容所(独・ナチ政権下での強制収容所)の体験記である。読んでいる途中ではあるのだが、収容所の記述に、今の状況が重なる。人間の感情は鈍磨してゆき、文化は冬眠していた― もちろん、そんな残酷な状況じゃないけれど、何というか言い得ぬ閉塞感というか、いま、文化が少しずつ蝕まれて死につつあるのを感じる。
言葉を研究する者の一人として、コロナウイルスという〈現象〉と対峙したとき、コミュニケーション、人間同士の連関というものが透けて見えてくる。こういう摩耗のときにこそ、ことばを尽くすべきではないだろうか。他者との交流が電子の世界での通信で行われるようなディストピアに陥ってもしかし、出来ることはあるのではないだろうか。この環境に順応し生き延びる。氷河期をやり過ごした人間にならきっと出来るんじゃないだろうか。他者を慮るために、会わないという選択肢をとる。それから―私たちは(主に)書き言葉をもって他者と話す。さながら平安時代の連歌のごとく、明治時代の恋文のごとく、相手に誠実に、きっと届くように祈りながら、拭い得ぬ閉塞感をこらえながら。
いまこそ、詩人は詩を書き、物書きは書を記し、歌手は歌うべきだ。文化の火を灯し続けるべきだ。きっと、人の精神だけが、今は自由なんだ。
また会える日まで
Uillow