解放区

言葉として、記録として

自分という色彩

脈絡のない話をする。 

 

 きのう、バイト仲間と一緒にご飯を食べていると、「永いこと家にこもっていると、多分旅行とかに行くよりずっと自分のことが分かるようになるんじゃないか」というようなことを彼は言っていた。物理的に鏡を見る回数も多くなるし、一人暮らしの焦点はいつでもきっと「自分」にしかならない。

 

 「自粛」ということばに言外の意味が加わって、一種の符牒として機能し始める。アメリカでは失業者が38万人を数えた。ウイルスがこうして、労働の場から人間を排斥してゆくのは、なんとなくAIが人間をリプレースするのと似ている、と思う。最近はAIが絵を描き、言葉を編み、知能とはまた異なる創造性を獲得してきているという。パターナリスティックな知識の学習と応用で、創造をこなしているのである。これは非常にこわいことだと思う。

 

 AIが人間と同等に精度の高いものをつくって、人類を脅かすのがこわい、とかではなく、AIがつくる創造性を肯定し、人間の創造性を否定する存在が出てくると、これは非常に困ったことだとおもう。そして僕もどこかで、人間にしか創造・想像できない、世界であり緻密な芸術は存在すると思っている。月並みな言葉で「かけがえのない」”人間性”は在ると思っている。

 

 それは「国語」であり、「文学」であり、「ナショナリズム」であり、「戦争」であり、「文学」であり、「平和」であり、「愛すること」であり・・・これらはすべて人文がなす精緻な芸術ではないだろうか、といいたい。

 

 この根底にある人間。ひいて、自分。自分とは、どんな人間だった?自分の中に、このような人文は息づいているか?

 

 「タブラ・ラサ」という概念がある。その昔 John Rocke (1632-1704) が提唱した概念で、ラテン語で「何も書かれていない石板」という意味だそうだ。人間は生まれた時白紙の状態で、後天的に色を得る、ということだ。デカルトプラトンの経験説を否定しながらも、教育の重要性を示唆しているのである。人は生まれではなく、環境と自らの意思で人として分化してゆくという主張。

 

 この主張にもある程度限界はあるのは見て取れるが、環境が大きく作用していることは否定できない。今の自分を形作っているのは、今まで出会った人々と、そこで作られ、消費された大量の言葉たち、自らの身体と、その心性。

 

 自分という色彩を、直視できるとき。それが今で、ぼくはその彼に気づかされたのだった。留学していたとき、究極の外部に曝されることで、自分をそこに見出すのが「抽出」だったとすれば、これは「直視」だろうか。仏教の「禅」のごとく、研ぎ澄まされた自分の内部への「直視」。自分はどのような言葉を編めるか、どのような人と生きてきた/いるか、ということ。白紙の自分に、誰がどのような色を付けてくれたか?そして、今度は誰かに、素敵な色をつけてあげられるだろうか。

 

わたしの、言葉で。わたしという人間で。

 

 

Uillow