解放区

言葉として、記録として

夜霧のさき

 閉塞感と疲労。バイトが短縮で普段より三時間早く終わる。楽になるかと思ったがそんなことはない、むしろいつもより忙しなく時間は過ぎていき、文頭の二つのものを抱えて家に帰る。

 

 一人暮らしは気儘な自由が許されているが、孤独を知るのにも良い機会だと思う。冷たい夜の風を裂き部屋のドアを開ける。いつもそこは暗闇だ。隔離は孤独との闘いであることをたしかに肌に感じた。

 

 今日は本のことを書こうと思う。大学に入ったときから読もうと決めていた本(だいたいそういう本こそ後回しにされていくのだが・・・)をいよいよ読んだからというのもあるんだ。

 

夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

 

 『夜と霧』と聞くと小説か物語だと思われるだろうが、これは第二次大戦期におけるナチスの収容所における体験記である。著者の経験・心理的洞察を主に記されている。内容については多くは語らないつもりだ。ただ、悲惨なことから教訓を得たぞ、という単純な編成ではないことだけは担保しておく。英題は「Man’s Search For Meaning」(人間の生きる意味を探す)であり、個人的に「夜と霧」という邦題を付けたことはものすごい功績だと思う(誰かは知らない)収容所の暗く深い夜を形容するように、希望を覆い隠す夜と霧という名詞を選び取るのは、鋭敏な詩人の感性だ。憧れる。

 

 話がそれた。。作中にこのような言葉がある。ニーチェの格言を引用したものである。

「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」

したがって被収容者には、彼らが生きる「なぜ」を、生きる目的を、事あるごとに意識させ、現在のありようの悲惨な「どのように」に、つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしてやらねばならない。

                       -フランクル『夜と霧』みすず書房, p.128 l.14-p.129 l.3

 

  収容所生活が長くなるにつれ、残酷な状態に慣れてゆく。精神的にそれを辛いと思わない、いわゆる”不感”状態に陥ったとき、人間は精神的に死ぬという。そして、精神の死んだ者から、今度は本当に死んでゆくのである。

 

 僕は、このニーチェの言葉にはっとするものがあった。それは自分に強く刺さっていたからだ。場当たり的に、大きな目標もなくただ日々を空過する自分に、それはまるでひとつの銃口をつきつける。今の状況に甘えて、日々を貪るだけになってはいまいか。なぜ生きているのか。それを考えて生きているか。

 

 何故生きるか、を考えて生きること。その精神的な土台は強靭な生命力になる。ひとつの目標があれば、それに向かうことそれ自体が生きることへと転化される。夏目漱石「こころ」で先生が言っていた「向上心のないものは馬鹿だ。」というのは、文脈を無視すれば真理ではないだろうか。何者かへ向かう心こそ、今必要なエネルギーではないか。

 

 

 

 いま、夜霧のさきの景色に何を見るか。重く立ち込める孤独。この長くなりそうな夜を、どこまでも深い霧を、晴らした後の景色を夢想できるだろうか?

 

Uillow