解放区

言葉として、記録として

雜考1

 眠れないので、今考えていることを書きます。ブログらしい使い方でしょうか。

 

 ここ数日、僕(一人称はフォーマルな時以外は「僕」にしようと思う)を悩ませるのが「時間」への意識だ。かいつまんで言うと、今の状態が永続しないという事実への鬱屈、あるいは抵抗のようなものだと思う。

 

 きっかけは寮に届いた両親からの頼りだった。曰く、父に不整脈が見つかったという。耳順にしてマラソン大会に出るような頑強な父が、病に罹る日が来ようとは、分かっていてもなんとなく覚悟ができていなかった。当然のことだが、父の命は有限なのである。しかし、その事実が見えていなかった、あるいは、それに対して目を背けてきたことに、今更気付かされる形となった。

 

 子どもの頃、人はほとんど、親から愛情を注がれているその時間のことを意識しない。鷲田先生の言葉を借りるなら、子どもは「時間が沸騰している」のである。今回の自分の状況はその縮小再生産的なものだと思う。親はいつまでも生き続け、自分に愛情を与えてくれるという幻想を、今の自分もどこかに持っていたのだろう。身体的にはもう成人していても、時間への意識という側面において、僕はまだその幻想に甘えたままだったのかもしれないなぁ、と思った。

 

という独り言でした。次は何か楽しいことについて書きます。。。(笑)