解放区

言葉として、記録として

平成最後の日に寄す

 感慨は少々乏しいが、振り返る意味はあるだろう。

 

 平成という時代が終わるらしい。このようなお祭りムードの時節に日本にいないのは痛恨だ。この目で社会がどのように動くのか、天皇生前退位による元号の変化を見たかった。このまま歴史の節目に立ち会うことなく、マージナル・マンとして生きてゆくしかあるまい。

 

 平成という容器に、自分の人生はすっぽりと収まって余りある。正確に言えば、九年ほどの余剰がある。今までの経験では測れない、新しい時代というものが、これから始まろうとしている。

 

 平成が終わるに際して、僕は何も準備をしなかった。平成という膨大な時間をなんとなく過ごしてしまった。同じように、人生も備えることなくただ漫然と過ぎてゆくのではないだろうかと僕は直観する。そして遡及的に、人生というのは突然、何の前触れもなく終わったりするだろうと考えられる。Christchurch のモスクで神に祈りを捧げていた人々は、各々自らの死を悟っていただろうか。交差点で車に轢かれることを、覚悟できるだろうか。

 

 「人生とは選択の連続だ」と中学生の時、学年集会で僕を名指ししてこう言い放ったM先生の姿が浮かぶ。選択の果てしない海の中で、たしかな「終わり」に対して、覚悟を決めておかなければならない、と思う。死ぬことを意識した人生は、色彩豊かなものになるだろう。何事にも、「有限の意識」が肝要だ。一種のインセンティヴとして。

 

 新しい年号は「令和」。約1500年の時を超えた言葉が選り抜かれる形となった。

さて、この限りある人生のうち、僕は何かを遺せるだろうか?