解放区

言葉として、記録として

幻を駆る

 

殊に英語を話していると、自分は不能感を感じることがよくある。自分には考えがあり、その詳細な部分まで英語では描き切ることができない、という種の不能感であり、閉塞感。

 

 

最近、自分なりにその正体が掴めたような気がしている。

言語は世界を形成している。その世界の差が、言語の差にもなる。日本語では「儚い」という感情があるが、英語にはそれを説明できても、それに対応する単語がない。つまりはそういうことである。ベン図を想像してみてほしい。言語Aが表現できる領域と言語Bが表現できる領域はある程度重なっているが、完全に等しくない。それぞれに、「自言語でしか表せない領域」が存在する。自分が追いかけていたのは、その領域であり、英語の独自領域に日本語を持ち込もうとしていたのだから、不能に陥るのは当然であり、その不能自体が御門違いの問題なのだ。

 

だから、僕はコミュニケーションにおいての翻訳は捨てる。話すときは、できるだけ英語で考え、英語で理解するように努める。日本語は介在させない。英語の思考方式・言語のニュアンスを掴もうとする。郷に入っては郷に従え、という訓に耳目を揃え、英語でしか描けない世界に目を凝らし、耳を澄ますことが必要だと思う。

 

この考えは、たくさんの人と話し、帰納できたものだ。僕に親しくしてくれる友達の多くはFreshmanだが、彼らは非常に多くの気づきをもたらしてくれ、英語の機微を教えてくれる。年下の後輩はいても、”友達”は貴重だと思う。友情に年齢は関係ないというのは真理だというのも、ここに来なければできなかった発見だろうと思う。

 

 

なんだかまとまりのない文章になってしまいましたが、これが僕の文章です。

読んでいただきありがとう。また、書きます。

 

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