解放区

言葉として、記録として

雜考2

 日本にいる友達から、電話で「写真を見る限り、最近生き生きしているね」という意の言葉をもらった。何故かはわからない。ここにきて特段表情や生活習慣を改めたわけではない。だが、思い当たるとすれば、ひとつここで棄てた意識があることだ。それは、「人にどう見られるかという意識」であり、一種の社会へ向けた萎縮である。SNSに自分が写った写真を載せたり、自分の考えを文にして綴るというoutput表現は、日本にいる時に自分が恐怖し、時に嫌悪したことだ。自分の顔は他人にわざわざ写真にして見せなくてもよい、とか、自分の率直な考えを批判されたくない、というのが正直なところだった。今でもやっぱり少しそう思う。

つまるところ、自分を少し「社会化」しようと思った。言いたいことを言わない、表現しない内的人間のままでいると、いつか心の底から表現したいことも表現できなくなるのかもしれない。それが怖い。

 だから僕は書く。表現する練習をする。今、ここで、あなたへ向けて、しょうもなくて取るに足りない、僕自身の考えを。

 

 共感も理解も、あるいは批判でも何でも良いのですが、本を読むお供の珈琲のように、些事として僕の文章が在り続けることを祈ります。

それでは、おやすみなさい