解放区

言葉として、記録として

喪失の価値

 昨日はじめて部屋に備え付けのヒーターをつけたら、埃の焦げる匂いが充満して参ってしまった。これは実感なのだが、今まで住んできた地域と季節が逆転していて、その中で”生活する”ということは、実に奇妙なことだ。

 

 

 五月が終わろうとしている。六月は寒い季節らしい。

 この一か月は自分にとっては、苦難の連続だった。精神的にも身体的にも調子が悪かった。その中で、ふと、「喪失」の価値について、考えた。

 

 僕がここへやってきたのは、何か新しい価値を獲得するためだと、今まで自覚してきた。しかし、それは裏を返せば、自分の日本での生活を一年分棄てることにほかならない。重要な選択には、このようなリスクテイクが潜んでいることが少なくない。

 例えば恋人を得ようと思えば、「その人と付き合える」という報酬と、「その人との関係を反故にする」というリスクとを同時に抱え込むことを逼られる。自分が傷つくことを選択肢として、覚悟して初めて、前に歩を進められる。

 

 つまり、喪失することに対して、少し積極的にならなければいけないのではないか、と僕は思ったりする。喪失という変化は、紛れもない価値になる。